言葉にしなきゃ存在しない、だろ。
その日は仕事で、いつも通り中学生に社会科の授業してて、ちょうど災害対策の単元だった。
「このように日本は、地学的にもいつ何時また大震災が起こるか解らないわけだ。だから、そのつもりで備えを、、、」
授業が終わり、俺自信が何の「備え」も「覚悟」もできていないことを知る。
日々増えていく被害報告。好きで観に行ったから、熊本城はやはりショックだった。
それでも「日常」をやっていくべきで、やっていけることは5年前に経験済みだ。
だから芝居を観に行き、稽古をする。ゲームもするし、本も読む。プロレス観るし、音楽を聴く。
別にそれに勇気をもらうとかじゃなく、いつも通りに自然に。
「あのときほどじゃない」、なんて言ってはいけないのだろうけど。少なくとも我々に直接の被害はなく、近づいている公演も中止とかそういう問題にはならなそうだ。世の中の陰惨な感じもどんよりとした絶望も、それを経験した分あのときよりは幾分マシだ。
だからこそ再び「なぜコメディをやるか」を考えなきゃ、と思う。
5年前、『大空襲イヴ』という公演直前、震災があった。公演中止も本気で考えた。降板もあった。泣いた。吐いた。そして初めて、「コメディをやる」という行為そのものを疑い、それなりに自分の中で意味づけをした。
じゃあ、今度は自身に被害がないから。自粛ムードが薄いから。
そういうことをまったく考えないままに芝居をする、それでいいのかも知れないけど。
でも考えないことは、そして言葉にしないことは、存在しないってことだから。
あの時の気持が、一過性のものじゃ厭だから。喉元過ぎたって覚えてなきゃいけない熱さもあるから。
ブレないために。疑わないために。
会場来た人が笑えるものを、演らなきゃな。だって演れるんだから。
コメディはウケなきゃいけない。クソの役にも立たないんだから、せめてウケなきゃ意味がない。
「届け」なんて思わないし絶対に届かないしそれでいいんだ。俺の気持の問題なんだ。
面白いコメディが、作りたいんだ。とてつもなく面白いコメディが。